2018年3月 剣友会だより

すっかり春ですね。「春」は、寒くて長い冬が終わり、「何か新しいことをはじめたい!」という気分になります。

さて、江戸時代には「十四事」と言われ、最も重んじられた武芸に、射・騎・棒・刀・抜刀(いあい)・撃剣・薙刀(なぎなた)・鎌・槍・鉄砲・石火箭(いしびや)・火箭(ひや)・捕縛(とりで)・拳(やわら)があります。今日は、そのうち剣術・撃剣についてお話します。
「刀で切る技」である剣術に対して、刀剣・木刀・竹刀(しない)で相手をうち、自分を守る武術を撃剣(げきけん)といいます。
実際に剣を使って渡り合えば、切るばかりでなく、剣で打つ場合もあって、両者が完全に分離しているわけではないと思うのですが、武術の十四事においては、剣術と撃剣は別々の武術として並べられています。
おそらく、江戸時代の剣道道場などでも、ふたつはともに刀剣・木刀の術として扱われ、剣術家と撃剣家がまったく別種の人とは認識されていなかったでしょう。
明治の世になり、武士の身分がなくなると、各地の道場で稽古を続けてきた武芸者にとって、剣の技は無用のものとなってしまいました。
剣術師範として雇ってくれる藩が消滅してしまったのです。
「武士の魂」とまで尊ばれた剣術が、新政府にとっては無用の長物となり、新政府にとって、西欧と戦える大砲術や騎馬兵術は必要であっても、一対一で剣を構える戦い方は意味のないものになってしまいました。
剣道が武術として命運尽きようとした時、その一歩手前で踏みとどまらせたのが、榊原鍵吉(1830 – 1894)という人です。
最後の剣客と呼ばれた榊原は、剣術を相撲興行と同じように、客の前で強さを競い合う試合として披露することを思いつきました。
木戸を建てて入場料をとり、剣客同士が戦うのを、観客はひいきの人を応援しながら観戦しました。
明治11年(1878年)には、明治天皇が上野に行幸し、天覧試合が挙行されるほどの大人気となりました。
榊原らの撃剣会が成功すると、明治中期までに日本各地で撃剣興業が行われ人気を博しました。しかし、明治中期以後は他の娯楽の流行もあって、段々人気は衰えて行きました。
衰退するかにみえた剣術は、日本警察制度を確立した川路利良(初代警視総監)が、警察官の武術訓練として剣術を取り入れたことにより、命運を保ちました。撃剣術の師範たちは、警察に「撃剣世話掛」として雇い入れられ、榊原鍵吉は師範の選抜にあたりました。
江戸から明治以後の剣術をつないだのが、最後の剣客榊原鍵吉だったといえます。
榊原らの撃剣は、今も警察の「警視流」として、木太刀形(撃剣形)、立居合、が受け継がれています。
二刀流で有名な宮本武蔵のように、剣の道一筋だった剣客は、剣の道を突き詰めていくと、哲学に通じるものになってしまったように、日本の武道は、決して「強ければよい、相手をたおせばそれだけでよい」というふうにはならず、美しさ、潔さ、など多分に精神的な修行のようになっていくところが、他の武術とはかなりかけ離れているように感じてなりません。

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大阪剣友会
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